「9288」、そして入線

シベリア鉄道《ロシア号》の乗車時刻が近づきます。プラットフォームで目にしたのは「9288」のキロポスト。そして入線する列車。この瞬間を待ちわびていました。

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プラットフォーム1番

通路の向こうでは階段が下に伸びていた。螺旋階段ではないけれど、四角い建物の壁に沿ってぐるりと回り込むような形だ。やっぱり内装がクラシカルで素敵。駅にシャンデリアがあるなんて、日本人の私にはとても新鮮だ。

きょろきょろしながらぐるぐると階段を降りると、清掃員のような出で立ちのおじいさんにロシア語で話しかけられた。何を言っているのかさっぱりわからない。困って首を横に振っていると、だんだんとおじいさんの表情が曇っていく。いらいらした様子で、同じ内容の言葉を繰り返す。私はロシアを旅行している日本人だ。ロシア語はわからない。なのになぜ、このおじいさんは怒っているのだろう。なんだか滑稽だ。

その時、別の駅員が通りかかって、おじいさんはその人にがさつな調子で話しかけた。皮肉にもその言葉は理解できた。「おい、この子、ロシア語がわからないようだから、連れて行ってやってくれ」

相変わらず眉をひそめるおじいさんと別れ、駅員に導かれて目の前の扉を抜けると、そこはプラットフォームだった。

灰色の地面。灰色の空。横たわる線路。その脇には高い壁があって、壁の上にはウラジオストクの市街が広がるはずだけれど、ここからは街並みがあまり見えない。目の前の線路には列車の姿はない。プラットフォームに建てられた柱に「1」と標識が出ているので、ここで待てということだろう。

「9288」のキロポスト

がらんとしてほとんど人気のないプラットフォームに、私はひとりぽつねんと突っ立っていた。乗り場は細長く、かなり先まで続いている。振り向くと黒々と光る、蒸気機関車がプラットフォーム上に展示されていた。新橋の駅前みたいに。少し興味を惹かれてとりあえず私はそちらへ足を向けた。

すると、唐突に「それ」と出会い、私は驚いて足を止めた。実にさりげなく風景に溶け込んでいる。まるでなんてことのない、普通の柱のひとつであるかのように。灰色をした石造りのモニュメント。黒い正方形の土台から細長く伸びる柱は先端に近づくほど細くなっていて、最上部には双頭の鷲の像が設えられている。そして刻まれている「9288」の数字。

「キロポスト」である。モスクワから始まった大陸横断鉄道の線路建設は、ここ極東のウラジオストクで帰結し、終着駅を建てた。そしてプラットフォームに設置されたのがこの道標で、「9288」はモスクワからウラジオストクまでの路線の全長を表す。ただしこのキロポストの設置した後、路線の変更などが行われており、現在の路線を実測すると40キロほど短くなっているらしい。

そしてウラジオストクからモスクワまではるばる続く線路に沿って、モスクワからのキロ数を示す道標が1キロおきに設置されている。つまり「9288」を起点とするキロ数が、モスクワに近づくにつれてどんどん小さくなっていく。そして西の終着駅であり始発駅であるモスクワには、「0」が刻まれたキロポストが存在するということだ。だから私はモスクワに到着した時、始まりのキロポストを探すことになる。

入線

ほどなくして、カタン、カタンと列車が枕木を超す音が響き始めた。国が違えど、列車の走る音は何かしらの郷愁を呼び起こす。私はこの音が好きだ。

私は先頭車両の写真を撮影するため、プラットフォームの前のほうまで移動し、列車を待ち構えていた。やがてプラットフォーム1番に、列車がゆっくりと滑り込んできた。列車の顔となる先頭車両は深紅が多用され、ごつごつした無骨なデザインだ。《ロシア号》は何両もの客車を引き連れて、長く伸びるプラットフォームに沿って線路を埋めていく。列車の歩みが少しずつ遅くなり、やがて停車した。

続いて後方に向かって歩きながら、数珠つなぎになっている客車を眺めた。車体のメインカラーはグレーで、アクセントとなる赤いラインが入っている。最後尾に突き当たると、目の前の車両には「РЕСТОРАН」と書かれていた。食堂車である。ちなみにロシア語の「Р」は英語の「R」、「Н」は英語の「N」に相当するので、これで「レストラン」と読む。

やがてさらに後方から機関部分のような車両がやって来て、ガッチャンと連結されるのを、跨線橋を降りてきた中国人の観光客と一緒に眺めていた。間もなくすべての車両が完全に停止した。

すると客車の端にある出入り口から、ひょっこりと制服を着た車掌が顔を出した。シベリア鉄道の車掌には女性が多いと聞いていたが、確かにマダムの姿が多い。太っている人も痩せている人もいるけれど、背はあまり高くない人が多いようだ。

私は列車のEチケットを広げて、自分の車両を探した。ずらりと長く連結された車両のどこかに、私の寝台が用意されているはずだった。各車両の窓に車両番号を書いた紙が貼ってあるからわかりやすい。そして数字の下に「モスクワ ウラジオストク」の文字。中国人観光客が列車の車掌さんと肩を組んで記念撮影をしている。

列車のEチケットには「車両番号8 座席番号15」とある。自分の客車を見つけて入り口に立つ車掌にEチケットとパスポートを見せた。ロシア風の涼しげな目元をした、背の低くてふっくらとしたマダムだ。歳は40代くらいかもしれない。どきどきしながら彼女がチケットを検分するのを見守っていた。どこかで何か手違いがあって、あなたは乗車できません、と追い払われたりしないだろうか。突拍子もないいやな想像が頭をぐるりと巡った時、どうぞ、と中に導かれた。

車両の出入り口からは小さなはしごが降りている。私はそのはしごをよじ登り、明かりのついていない車内の暗がりへと踏み込んだ。

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