さよならアンドレイ青年

シベリア鉄道の初日、時刻は夕方から夜へと移り変わり、黄昏時のシベリアの空はうっとりするほど美しい。イーラとアンドレイと、3人で始めたウイスキーの酒宴が終わりに近づく頃、列車はハバロフスク駅に滑り込む。アンドレイとの別れについて。

ヴァーゼムスキー駅にて

ヴァーゼムスキー駅に到着したのは、現地時刻で20時半過ぎである。日本と違ってまだ薄明るい空。駅に到着する少し前に、車窓から素晴らしい夕日を見た。シベリアの草原に沈みゆく橙の太陽を、紫の雲が覆い隠していった。夕日を背に受けて浮かびあがる白樺の輪郭。列車の旅で最初の夜が訪れた。

「写真を撮りに行こう。面白い像があるよ」とアンドレイは私を駅のはずれに誘い出した。雨が降ったのか、少しぬかるんだ土の上をアンドレイは煙草をくわえ、薄っぺらいスリッパでぺたぺたと歩く。草がぼうぼう生えたところに白い軍人の銅像が建っている。ぬるっとした地面をビーチサンダルでえいやっと踏みしめながら銅像に近づくと、アンドレイが私のカメラでばしゃばしゃと写真を撮ってくれる。何枚も撮るものだからポーズに困って、そういう時はちょっとおどけてしまう。その間に何箇所か足を蚊に刺された。

駅舎に戻るとそこにも彫像がある。そこでも撮ってもらった写真に、13時55分と電光掲示板に表示されているのが写りこんでいた。だから現地時刻では21時になろうかという頃合いだ。

写真を撮り終わると彼はイーラに合流し、煙草をふかした。列車が停まっているそばに、パンやお菓子を並べたかごがたくさん並んでいる。シベリア鉄道では、列車の到着を見計らって地元の住民が列車のそばまでいろいろなものを売りに来る。たいてい、乗降口のはしごを降りてすぐのところで、地元のおじさん、おばさんが商品を並べて待ち構えている。ご当地の食べ物が売られていることもあって、眺めていると楽しい。各家庭の手作り料理も多く、旅の食事に気に入ったおかずを加えることもできる(ただし衛生的に安全かどうかは保証がない)。

ヴァーゼムスキー駅の小さな市場をひとしきり物色すると、やることがなくなったので私はひとり、早めにクペーに戻って休んでいた。ふと窓から駅を見下ろすと、なんだか不安げな表情できょろきょろしているアンドレイとちょうど目が合った。彼は「あっ」とした顔で、いかにも「いたいた」というようなことを傍らのイーラに話している。ありゃ、どうやら私がいなくなったと思って心配させてしまったようだ。乗り込んできたアンドレイとイーラにちょっと叱られた。「心配した!単独行動は、だめだ」

泥酔、そして口論

列車は夜のシベリアを再び走り出す。この時の車内の様子は今でも印象深く残っている。黄昏時に押し寄せる夜の帳が、橙に染まっていたシベリアの空を群青に塗り替えていく。緑の色はくすんで灰色を帯びながら、影の中に沈みかけている。私達はクペーにいて、下段のベッドでおしゃべりをしながら、時々ウイスキーを飲む。クペーの中は昼のように明るい。なんて贅沢な時間を過ごしているのだろう。

アンドレイの目的地であるハバロフスクまで、残された時間も少なくなってきた。時刻表を見れば、到着予定時刻は現地時刻で23時前である。あと2時間ほどでこの友人が列車を降りてしまうと思うと、イーラも私もしんみりしてしまう。

その日は何度「ダバイ」を繰り返したか知れない。ウイスキーの大瓶の中身はすっかり半分ほどになっている。あたりがとっぷりと夜の闇に静んだ頃、ふと二人をよく見ればずいぶん顔が赤くなっていた。イーラのおしゃべりがますます加速して、身振り手振りが大きくなっている。彼女の手が、テーブルの上のマグカップをつかもうとするのにふわふわと宙を掻いたり、空中にカップを置きかけたりするのを目撃した。

ある時、二人の会話がなんだか深刻な色味を帯び始めた。言葉の端々に私の名前が混じっている。しだいに二人の語気が荒くなり、何事かにまつわる口論へと発展した。それまで私もやんわりと会話に加えられていたのに、私の出る幕は完全になくなり、神妙な面持ちで二人の顔を見比べていた。

話の途中で、アンドレイは手酌でウイスキーをどぼどぼ注いで何杯かあおった。「フーッ!」顔を覆う両手の間から、苦しそうに息が吐き出される。いったい何が起きているのか。見守ることしかできなかった私は、この時イーラとアンドレイが何を話していたのか、結局わからずじまいだった。

車掌が私達のクペーまで、間もなくハバロフスクに到着することを知らせに来た。アンドレイが荷物をまとめ、靴下をはく間も、二人は何事か強い口調で話し続けている。イーラは彼を叱りつけるように何かを主張していて、アンドレイが声高に反論する、といった調子だ。

彼はウイスキーの大瓶は車内に置いていくと言った。ウイスキーの中身はもはやほとんど残っておらず、液面は底から5センチくらい。恐ろしいことにアンドレイとイーラの二人であの巨大な瓶をほとんど空けてしまったのだ。

さよならアンドレイ

彼はすっかり下車する準備を整えると立ち上がり、「じゃあね!」と唐突にさよならを告げた。しかしウイスキーのせいですっかり千鳥足だ。ごろごろと転げるように通路に出て、派手に転倒するのを見て私とイーラは顔を見合わせる。

一連の口論を目撃した後で、私はイーラよりも前に進み出て、彼を見送ることはためらわれた。彼女に倣って、クペーの出入り口からアンドレイがよろよろと乗降口へと続く扉の向こうに消えるのを見守っていた。列車の速度がゆるやかになっていく。ハバロフスクに到着しようとしていた。

列車がハバロフスク駅に滑り込み、やがて停車した。乗降口のはしごがガッチャンと降ろされる音に続いて、人のざわめきが聞こえてくる。乗客の出入りが始まったのだ。その間、私達はクペーの扉のそばにしばらく立ち尽くしていた。

しかしある時、イーラは何かを決心したように私の手を強く引き、アンドレイの消えた扉に向かって突進していった。彼女も泥酔している。乗降口に辿り着くと、乗車しようとする人達をかき分けるようにしてハバロフスク駅に降り立った。

暗闇の中にハバロフスクの駅が浮かび上がっている。覚えているのは、スポットライトのように閃光を投げかける照明の光、その中でごったがえす群衆の輪郭、ざわざわとした人間の形にならない声や音。誰も彼も顔ははっきりと見えなかった。列車から降りる人と、迎える人。列車に乗る人と、見送る人。黒い人影の群れの中を、イーラは私の手首をがっちりとつかみ、早足で歩いた。引っ張られるようにして私も人混みの中を潜り抜けながら、群衆の中にアンドレイの姿を探した。しかし彼の姿を見つけることはついにかなわなかった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする