ある雲がちな朝にウラジオストクの街を歩く

ウラジオストクでの滞在2日目。丸一日を使って、ウラジオストク市街の観光と、翌日に乗車するシベリア鉄道に備えて水と食料の買い出しをすることに決めていました。朝から午後過ぎにかけて、ウラジオストク市街を散歩した時のことについて。

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始まりは曇り空

その日は少し寝坊をした。朝食をとるのにやや遅い時間にホテルのレストランへ行ってみると、係のお姉さんが早くも床に掃除機をかけていたので、そそくさと気づかれないように立ち去った。チェックインの時にくぐったのと同じ高台に抜けるドアから出発した。写真は本日のお天気と、ホテルの北側、スポーツ湾の眺め。どんよりである。

ホテルの周囲には建物はまばらだ。街に続く坂道を延々と下っていくけれど人通りはほとんどなく、トタン屋根のがらんとした建物や、工事を中断してしまったような造りかけ建物もある。少しさびれた雰囲気すら感じる。けれど、おそらくこれがロシアではよくある郊外の雰囲気だったと思う。

シベリア鉄道に出会う

大きなカーブを回り込んだところで、道の先が大きな通りにつながっていた。その向こうに横に長い建物が見える。正面にキリル文字が書かれてているВОКЗАЛ(バクザール)の文字は、それが鉄道のターミナル駅であることを表す。シベリア鉄道の東の始発駅、ウラジオストク鉄道駅であった。

大きな駅舎だ。ネオロシア様式のクラシカルな凝ったデザインで、よそ者には近寄りがたい重厚感が漂っていた。駅前はバスターミナルになっていて、大型バスがひしめきあって停まっている。そして駅舎のそばで煙草をふかしているロシアのおじさん達。

正面には出入り口とおぼしき扉がいくつかついていたが、ガラスの向こう側は暗くて見えない。人の出入りもないようだ。その扉にはもしかして鍵がかかっているのじゃないかなと思わせるくらいの無機質な出で立ち。私は扉を開けずに駅舎に沿って歩いてみた。

すぐに大きな橋に出た。束のように何本も走っている線路をまたぎ、駅舎の奥まった部分へと渡されている跨線橋だった。線路の間は乗客の乗降場になっていた。ちょうど列車が入線している。プラットフォームで抱き合う人達、そして彼らを囲む数名の人。列車に乗って遠くの地から帰郷した家族との再会を喜んでいるのかもしれない。これが初めて目にしたシベリア鉄道の姿だった。

プラットフォームから歩道橋まで細い階段が続いていて、大勢のロシア人達がぞろぞろと登ってきた。皆手に大きめの荷物を提げて、橋から街へと散っていく。この人たちの中には、モスクワから到着した人もいるのかしら。

スヴェトランスカヤ通りから海岸通りへ

鉄道駅の前にはアレウーツカヤ通りが南北に走り、交差するのが街の大通りであるスヴェトランスカヤ通りだ。右折して大通りに踏み込んだ。

待ち受けていたのは、サンクトペテルブルクで目にしたロシアの街そのものだった。ヨーロッパ風のキュートな装飾が施された建物が続くのだけれど、どこか新しさとみすぼらしさが同居している。ピンクやクリーム色の建物がいくつか混じっていて、うっすらと汚れているように見える。

ロシア再訪を実感し嬉しくなる一方で、奇妙な感覚があった。以前サンクトペテルブルクを訪れた時は、ドバイ経由で1日がかりで移動した。今回、東京からのフライトはたったの3時間。それなのにそこはロシアだった。あっけないものだ。それに圧倒的ともいえる広大な国土。

大通りの人通りは大変まばらだ。右手にすぐ「セントラルスクエア(中央広場)」が見つかった。黒っぽい銅像が道のそばに立っていて、近寄ってみると世界大戦の軍人をかたどったものだった。広場は閑散としていて、人間よりも鳩のほうがはるかに多いという状況だから、地面のごみばかりが目立つ。

街のメインストリートとはいうものの、スヴェトランスカヤ通りを歩く人の姿は先ほどの広場同様にほとんどなかった。曇り空の下、さびれた大通りを歩いていると、退廃感のある街という印象が否めない。街の雰囲気がもの寂しい時ほど、私の足は速足になった。

しばらく進むと右手にだんだんと緑地化されたスペースが見られるようになった。子どもの一団がスケッチに励んでいる。先生らしき姿もある。緑地の隙間から海がちらりと見えた。

ある地点で黒い石で整地された広場に出た。道の向かいには玉ねぎ屋根の、ロシア正教の教会もある。黒い地面の一点で炎が灯されていた。それは戦没者の死を悼むためのもので、「永遠の火」と名付けられている。

石碑に刻まれた言葉はロシア語で私には読むことができない。でも、その死者たちを殺めた人間の中には日本人もいただろうということはわかる。シベリアで没した人々のために、少しの間手を合わせた。

先ほどの中央広場といい、この永遠の火といい、短い時間で2つの慰霊碑を目にすることになり、その戦争の苛烈さがしのばれた。私の曽祖父も戦時にシベリアへ捕虜として連行された。幸い生還し、往生の後に他界したけれど、シベリアでの戦争の歴史は私の出自ともどこかでつながっている。戦争は自分たちの世界の内側で起きた出来事なのだ。

先ほどの緑地の中にある歩道を辿って、大通りに平行するカラベーリナヤ海岸通りに出た。出発時に比べて少し空が明るい。目の前に、昨日高台から見下ろしたV字の黄金橋がででーんとそびえていた。

海岸通りを西に歩いていくと、潜水艦が道に横たわっている。内部は博物館として運営されているらしい。他にもこの海岸通り沿いには軍事関連の展示物が多い。

このあたりから中国人観光客の姿が増えるようになった。その中でひとりの中国人のおじさんと目が合った。彼は一人だったけれど、誰かを待っているように道端で手持無沙汰にしているといった印象だ。彼はニーハオと中国語で話しかけてきた。「中国(ジョングオ?)」

「ノーノー、日本人(リーベンレン)」しかし私のリーベンレンは通じなかった。中国語はRの発音が難しい。「ジャパニーズです」それでも彼は、にこにこしながら頭にはてなマークをつけている。おじさんは英語がわからない様子だった。

彼は中国語で何事かを続けて話すのだけれど、私はもちろん理解できない。中国語は単語をいくつか知っているだけだ。するとおじさんはロシア語で話しかけてきた。「パ ルースキー?(ロシア語はできる?)」

私が中国語もロシア語もできないとわかると、おじさんはにこやかながらもちょっと困った顔をして、中国語で、「漂亮(ピャオリャン)!」と言ってくれた。美人だね、という意味だ。これにはちょっと驚いて、謝謝とお礼を言った。

のぞき始めたウラジオストクの青空

おじさんとさよならして私は海岸通りをもう少し西に歩くと、建設途中の建物が並ぶ地帯を通りかかった。作業員のおじさんがうろうろしている現場もあれば、打ち捨てられたように見える現場もある。

そこらで海岸通りを切り上げ、ゴーリキー・ドラマ劇場の脇に走る道をのんびりと登った。音楽を聴きながら歩くロシアの若者とすれ違う。街中では少しずつ通りを往来する人間が増え始めていた。ロシア人はもしかすると、少し朝が遅いのかもしれない。

ウラジオストク駅も面しているアレウーツカヤ通りに再び差し掛かった。同じく道沿いを歩くのはファストファッションに身を包んだ今風の若者や、デートを楽しむ大人達だ。横断歩道を渡るのに、信号待ちをしている大勢の人の群れ。朝には空っぽだった街中が、にわかににぎわいを見せ始めている。きっとこちらが本来のウラジオストクの姿なのだろう。昼になってようやく街が目覚めたという雰囲気があった。

それに見上げると、もくもくと灰色にけむる分厚い雲が少しずつ晴れて、青空がのぞくようになっていた。私が抱いたウラジオストクのイメージは、「灰色の街」。それを挽回しようとするかのように日差しが降り注ぎ、街並みや地面が冴えわたり始めた。

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