発車、西に向けて

ウラジオストク駅で、いよいよシベリア鉄道の《ロシア号》に乗り込みます。入線直後の車内の様子、そして同じ客室で出会ったウラジオストクの親子達について。ついに列車は走り始めます。

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乗車

《ロシア号》の車内には暗がりが満ちている。一歩踏み込むと、入ってすぐのところに年季の感じられる大きなタンクが据え付けられていた。これは湯沸かし器、サモワールと呼ばれるものだ。乗客はこのサモワールから、いつでも自由に熱いお湯をもらうことができる。

左へ曲がると決して広くはない通路が伸びている。車内がこれほど暗いのは、通路の右手にはめられた車窓のカーテンがすべて閉じられているからだった。左手には「クペー」と呼ばれるコンパートメントが連なっている。扉はどれも閉まっていた。床には暗い赤色をした絨毯がきっちりと敷かれていた。想像していたよりもずっと清潔感のある車内である。

車掌のマダムは、いかにも観光で乗車した風であるこのアジア人の小娘に対して「おいで」と手招きし、車両の奥まで導いてくれた。奥まったところにある小部屋までずかずかと突き進み、扉を開けるとそこはお手洗いであった。

「パーピル!」

彼女が指したところにはトイレットペーパーらしきものがぶらさがっている。そしてそれを、備え付けの箱に入れるようなそぶりをした。便器に流さずにここに入れなさい、という意味らしい。首を縦にふりふり、わかりましたと合図すると、にっこりして乗車の受付業務に戻っていった。

車両はしんと静まり返っているけれど、手前のコンパートメントに先に乗り込んだらしい乗客の気配があった。自分のクペーはすぐに見つかった。ドアのところにベッドの番号も書かれている。

スライド式の扉を開けると、2段式のベッドが2組、部屋の壁に据え付けられていて、真ん中には大きな窓がはめられている。横開き式のカーテンは今は閉じており、真ん中の小さなテーブルには観光案内のパンフレットが丁寧に広げてあった。部屋に向かって左手下段のベッドが、私のイルクーツクまでの寝床だった。残りのベッドは3台。どんな人がやって来るのだろう?

重いリュックを降ろしながら、まだ見ぬ同居人を思いソワソワした。いろいろなシベリア鉄道の記録を読んだけれど、理想はロシア人の家族連れと、のびのび、ぬくぬくと列車の中で過ごすことだ。ロシアの厳しくて優しいおっかさん、可愛らしい子ども達…。

貴重品を含まない旅の荷物は座席下のスペースに押し込んだ。暑苦しいスニーカーも脱いでしまって、それも座席の下に突っ込む。早速ビーチサンダルに履き替えた。快適。素晴らしい。

ロシアの人達は、乗車したらたいていラフな部屋着に着替えてしまい、列車の中ではのんびりと過ごす。でも35リットルのミレーのリュックで旅している私には、パジャマを持ち込む余裕はなかった。

貴重品と、最低限の手回り品、洗面用具の入った化粧ポーチを手元に置いておけば車中では困らないだろう。食べ物と水も手の届くところに置いた。カーテンを開けると、先ほどまで私が立っていたウラジオストク駅のプラットフォームが、ずいぶん低い位置に見えた。さっきよりも多くの人がプラットフォームを往来している。大きな旅行鞄を提げている人。見送りの友人や家族。恋人もいるのかな。

ウラジオストクの親子達

その時通路から声がした。子どもの声。ついに私のクペーでともに過ごすことになる同居人がやって来た。ひょっこりと姿を見せたのは、50代ほどの女性、よく似た顔立ちをした30代くらいの女性、そして小さな女の子の3人だった。いかにも親子三代という雰囲気だ。

にぎやかに部屋を訪れた3人は、私に向かって気さくにこんにちはと挨拶をした。大きな荷物はひとつ。小さな女の子が私の隣に腰掛けた。なんてくりくりと大きな瞳をした、可愛らしい女の子だろう!帽子をかぶって、ぱちぱちと瞬きをする彼女の愛らしさ、美しさに私は驚愕した。子供服の広告から飛び出してきたみたいだ。うっとりとその子のバラ色の頬に見とれた。こんなに可愛い子と列車の旅ができるなんて…。

しかしほどなくして、母親は時間を気にするそぶりで、女の子に「おばあちゃんにさよならをしようね」と声をかけたと思う。そして母親と女の子は初老の女性に「バイバイ」を残し、車両を降りていく。彼女らは私にもバイバイと手を振ってくれた。

初老の女性に続いて車窓の外をのぞくと、プラットフォームで親子がこちらに手を振っていた。女の子は母親に抱っこされて、小さな手の平をふりふり。娘と孫の姿を見るおばあちゃんの様子からは、家族を愛おしむ気持ちが柔らかく伝わってくる。

その時、ゆっくりとプラットフォームが後ろに少し流れた。列車がそろそろと動き出す。バイバーイ、と親子の姿が後方へと見えなくなる。ごとん、ごとんと列車は少しずつ速度を上げて、ウラジオストク駅の灰色が車窓の外を流れて行く。そのようにして、長い長い列車の旅が始まった。ウラジオストクからはるか西を目指して、のんびり、のんびり。まずはイルクーツクまで、3泊4日の旅路を楽しむことにする。

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